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初谷むい「春の愛してるスペシャル」の話

こんばんは。放置癖があるので、いい加減ブログはブログをブログしないといけません。
というわけで読んだものの感想はガンガン書いていかないとな、と思いました。



死の忌避と自己卑下~初谷むい「春の愛してるスペシャル」を読んで~     二三川練


 「後世に残る歌が良い歌なのか?」という問いがあるのですが、少なくとも僕はそう思っています。刹那的に気持ちのいい語、文体、などに喜び続けた先にあるのは麻痺でしかなくて、だから歌会で時間制限のあるなかで選ぶときについそういう歌に票を入れることがあっても、評する頃にはきちんと目を覚ましておきたいです。
 飴は溶けます。すぐに消えてなくなります。
 だから人間を「アイドル」と呼ぶことはかなり残酷な行為で、これはつまり永遠に飴を製造しろって言ってるわけですよね。舐めたら気持ちよくなれる飴。味に飽きたらいくらでも代わりを舐めればいい、飴。芸術をやろうって人間が「アイドル」と呼ばれるのは一つの死でしかなくて、呼んで喜んでいる人、呼ばれて喜んでいる人を見るととても嫌だなあって思います。


 で、「春の」「愛してる」「スペシャル」なんていうめっちゃ飴、みたいな本を見たらものすごく警戒せざるをえないんですけど、でも初谷むいなんですよね。初谷むいさんはTwitterにギリギリ殺されていない人間だと思います。Twitterはいつでも初谷むいさんを殺そうとしているので、これからも自我を保ってほしいです。自我のある人間が言うときの「春の愛してるスペシャル」は強いから。


  爪に塗るきれいな色水 食べられる野草 朝になれば鳴く鳥 (「1.春はあけぼの ゴミ袋、光をよく吸いよく笑う」)


 マニキュア(あるいはペディキュア)を「きれいな色水」と捉えなおす。そのことと「食べられる野草」「朝になれば鳴く鳥」が同じステージの捉えなおしとして描かれているのがまず面白かったです。爪にマニキュア(あるいはペディキュア)を塗る景と朝に鳥が鳴く景は似た世界観で、そのなかに「食べられる野草」という世界観が挿入されている。これが「食べられる花」だったら全然だめで、「野草」だから良い。ここにはフィルターの無い現実がある。


  からまって揺らいで消えるまよなかの裸体はとおい汽笛のにおい (「2.夜汽車」)


 「まよなか」だから裸体が「揺らいで消える」ことも許されるのかな、と思いました。真っ暗な場所で裸体がからまる、その触覚から離れて気配が揺らぎ、消える。残ったのはにおい。「汽笛」は音だけど、蒸気を使うので遠くても「におい」はその場所に残りそう。共感覚的で比喩も面白い歌です。ただ、次の歌で「電気の紐ひけばひかりはうしなわれ~」とあるんですよね。「からまって~」の歌は真っ暗闇のなかのことと読みたかったので残念でした。


  だしぬけに指絡めればすこしだけ力がこもる いぬ 見に行こう (「4.遺伝子と多言語」)


 過去にとある人間から「人をセックスに誘うときは『DVD観ない?』か『犬を見に来ない?』って言うんだ」って言われたことがあります。その人はもういないのでこれが一般的な話なのかどうかはわからないのですが、どうやらナンパ文句らしいですね。新宿を歩いていると「DVD……DVD……」と呟きながら佇んでいる国籍のわからない人を多く見かけますが、あれもその類いなんでしょうか。
 そんなことは知っていても知らなくてもこの歌は良い歌なので話をします。勢いにまかせて指を絡めると、相手(あるいは私)の手に力がこもる。相手なら握り返してきたことに、私なら体が勝手に力をこめたことになります。どちらにせよそれに対するちょっとした驚き、もう後には引けない、という空白が挿入される。そこから、覚悟を決めたように「いぬ 見に行こう」。ここの空白も良い。このあとセックスするのか本当に犬を見に行くのかはどちらでもよくて、ワンシーンの切り取り、その臨場感が十全に伝わってきて良かったです。この一冊のなかで一番好きな歌でした。


  津波のように押し寄せるからわからない 星、死んだ星、生きている星 (同)


 これはなんでしょう。わからないけど惹かれます。津波のように押し寄せる何か(たとえば強い感情)、などがあり、そのなかに「星」「死んだ星」「生きている星」がある。というより、「何か」を多くの「星」と認識し、そこからさらに「死んだ星」「生きている星」と細分化されていく、のほうが良さそうですね。
 星は死んだら宇宙から消える。だからこそ「死んだ星」という表現はものすごく良い。また、「生きている星」との並びで「死んでいる星」としなかったのも良い。「わからない」なかでぼんやりと認識している「星」、それらをはっきりとした「死」とはっきりとした「生」とで分けていく。そこには揺るがない現実への認識、「万物は死を迎える」という現実への意識がある。結局「何か」がなんなのかは不明ですが、「津波のように」も死の気配がありますね。「死」を知っている、と感じさせる作品は魅力的で、この「春の愛してるスペシャル」も底に流れる死の匂いが魅力的でした。


  すべてのティッシュは使い捨て心臓のかたちのいちごは赤くつぶれる (「5.るーるろーるるーる」)


 これも死の歌。上も下も死を言っているので過剰とも思いつつ、「心臓のかたちのいちご」のように現実をイメージに転換し、そのイメージすらも「赤くつぶれる」と現実に飲み込まれる表現が良かったです。


 で、この「死」が極へ向かったのが「全自動わんこ」という連作です。これは良い連作だったのでじっくり書きます。


 まず、この「全自動わんこ」という概念。作中で「コンセント」とあるのでロボ犬と同義だと考えます。そういうオモチャありましたね。
 ロボットは生と死の狭間にある概念だと思います。機械仕掛けだから生きているとは言えない、しかしより生物に近づいたロボットへの感情移入は生き物に対するそれとほとんど変わらない。月並みだけど電気羊か本物の羊かの違いはどこにあるのか。また、ウィキペディアから57577の文字列を引き抜いた偶然短歌がありますが、それは果たして、認識した世界から57577を引き抜いた我々の短歌とどれほど違うのでしょうか。人間の場合は作為や操作などを行うことでロボットからの差別化をはかれますが、動物の模造の場合は……
 「北大短歌 第五号」の特集が「短歌とSF」ということで、このような着想があったのでしょうか。そんなことを思いつつもう一度この「全自動わんこ」という言葉に戻ります。「全自動」というところが上手い。この言葉は機械的なものをイメージさせつつ、その実よく考えると生き物はみな全自動で動いております。この評も僕の脳が全自動で思考し、指が全自動で入力しているわけです。
 「わんこ」は、少なくともこの犬が「愛でる対象」であることを示します。この連作では「私」が「全自動わんこを愛でる者」になるときと「全自動わんこそのもの(愛でられる者)」になるときがあり、「全自動わんこ」という概念が生と死のちょうど中層に浮遊するわけです。


  水はこわいけど雨は好き全自動わんこはずっと窓を舐めている

  全自動わんこにはすきなひとがいて不死身でよかったワンとか思う

  最初からお手もお座りもできたけどあなたに教えてもらいたかった

  全自動わんこごめんね全自動わんこ2のほうがちょっとかわいい


 この四首の並びがとても良い。「私」と「全自動わんこ」との距離が縮まり、二首目で憑依が始まり、三首目で完全に「私」は「全自動わんこ」になります。つまり、愛でる側から愛でられる側へ入れ替わる。この三首目はプログラミングされているからこその苦しみがうまく描けていて、好きな歌でした。
 そして、そんな愛でられる側の気持ちがわかった上で四首目があるわけです。この「ごめんね」は「私」から「全自動わんこ」へ、そして「私を愛でる者」から「私」への二つの方向を持っている。「私」にとって「全自動わんこ」には代わりがいるのと同様に「私を愛でる者」にとっても「私」の代わりは存在する。この「私」はそれをわかっている。それを踏まえて連作「春の愛してるスペシャル」を読むとまた印象が変わってきます(本当は連作から連作へそのような印象を持ち込まない方がいいのかもしれないけれど、同じ作者の一冊の集に収まっている以上は集としての読みも行いたいです)。
 で、連作の最後にこの「全自動わんこ」は温度機能が壊れて「死ぬ」けれど、すぐに「よみがえ」り涎を垂らします。その「死ぬ」歌はとても悲しそうに詠われているのですが、「不死身」という語が前にも出ている以上、これは演技的な悲しみです。それがこの「私」の持つある意味で最も怖い性格で、つまり結局「私」にとって「全自動わんこ」は生物なりえなかった。生物「のように」愛でるけれど、「全自動わんこ」が「不死身」であり壊れてもすぐに修理できる存在である、という自覚がこの「私」にはある。そしてその認識は「私」への認識とも通じる、というある種の自己卑下が見えてきます。
 機械は修理すれば治るけれども、人間はどうでしょう。「私」≒「全自動わんこ」と考えたときの「全自動わんこは何度もよみがえる」というフレーズはめちゃくちゃ残酷で悲しい。特に、これまでの歌で「死」の認識がはっきりと示されていると。


 短歌連作を読んでいると、「私」の死生観と「私」観がどうしても見えてきます。「春の愛してるスペシャル」を読んでいて感じたことのほとんどは上に書いたのですが、さらに感じたのは「永遠の生(あるいは愛)を希求する姿勢」でした。


  カーテンがふくらむ二次性徴みたい あ 願えば春は永遠なのか (「1.春はあけぼの ゴミ袋、光をよく吸いよく笑う」)

  奇跡、こんにちはの世界 あのまんまあなたと湯船で溺死はしない (「3.いつかした宇宙の話」)

  あたしたちはばかだから、お祈りみたいに繰り返す。届け、と願ってしまう。ねえ、そう思うこの瞬間は、えいえんではないんですか。あなたを愛してる、永遠に愛してる。だいじょうぶ。世界よりもあたしを信じてほしい。(「春の愛してるスペシャル」中の散文より抜粋)


 はっきりと言及されているのはこのあたりですが、他にもなんとなく死を忌避するような、永遠を希求するような歌が散見されて、そして、それらの歌で良いと感じるものはほとんどありませんでした。

 永遠の今を信じようとするもの、あるいは信じているもの、そのために絶対的な「死」から視線を逸らしているもの、そんな刹那的な快楽を提供してくれるのが「飴」だと考えています。「アイドル」は「飴」を量産するし、また「Twitter」はいつでも「飴」を求めている。
誰かが初谷さんの歌について「全肯定感」とか「愛に溢れている」とか言うときにどうしても首をひねってしまうのは、僕には「世界よりもあたしを信じてほしい」がとてもか弱い自己暗示にしか見えないからです。死から逃れられない「私」、相手にとって替えのきくどうでもいい無価値な「私」、それが現時点での初谷むいの歌の本性だと思います。
 生きていると必ずどこかで死と折り合いをつけないといけない瞬間があって、初谷さんの歌はまだその途中にあるのかな、と思いました。ほとんど死を理解しているけれど、何かが邪魔をして納得しようとしない。その「何か」が初谷さんのなかにある「初谷むい的なもの」だとしたらすごく嫌だなあ、と思います。
 「春の愛してるスペシャル」は面白かったのですが、同時に呪いも見えてきました。その呪いはいつか必ず捨てなくてはならないもので、そのためにはまず「Twitter」に殺されないことだと思います。死の本能的忌避や根本的な自己卑下を乗り越えた先にあるのが「いぬ 見に行こう」なのではないでしょうか。
 とりあえず「春の愛してるスペシャル」が初谷むいの一つの区切りのように感じています。今後の作品も読んでいきたいです。
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