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「ぬばたま」創刊号の話

 こんばんは。ブログに感想書きますねって言って書かないままでいたらそろそろ第二号が出てしまうそうなので急いで書いています。なにかミスあったら教えてください。



乾遥香「ちはやぶるきみがいるから」

  めずらしくきみがマフラー巻いていて今日が寒い日だってわかった(一首目)

  わたしにはわたしの暦 きみがそのコートを着たから冬のはじまり(三首目)

 「ちはやぶる」に「きみ」が充てられているわけですが、つまり自分の信仰、言い換えれば自分の価値判断などの基準になるものを仮に「神」と呼んだとき、この主体における「神」は「きみ」になるわけですね。「きみ」がマフラーを巻けば寒い日ということになる。それは主体性が無いのとは微妙に違う。「きみ」の基準に全振りすることに主体の主体性は表れており、その「信じているわたし」の強度が高いのであまり不快にならずに読めました。むしろ「きみ」の人格にイライラすることの方が多かったです。
 で、「わたし」がいくら「きみ」の基準に従ったところで同一の存在になることはできないし、ベットすること自体が快楽のようで、実際にはリターンがほしい。そのリターンがない以上は苦しむのは必至なんだろうな、と思いました。

  叶わないことがどんどん増えていく 単3電池で光るステッキ(十四首目)

  お祝いの輪飾りをずっとつけたまましずかな部屋でひとりの暮らし(二十二首目)

  愛してよ うまく泡立てられなくてだれてしまったホイップクリーム(二十四首目)

 子どもの象徴としての道具立てがあり、引いてませんが例えば「缶コーヒー」とかは大人の象徴なのかなあ、と思いました。「わたし(子ども)」⇔「きみ(大人)」という対比なのかな。ここらへんの歌はさっき書いたリターンの来ないことへの苦々しさとかがあっていいんですけど、連作は最終的には「きみ」の優しさに甘えてまだベットをし続けるという感じに終わっています。ダメ人間は嫌いじゃないですけどダメ人間製造機は嫌いなのでこの「きみ」が不快でした。「愛してよ」を突き通さなかった「わたし」も同様。自分にベットしようとして、結局フォールドしたので物語的にはもやもやが残る。歌としては文脈のためにレトリックを失ったような歌がいくつかあり、もうちょっと文脈から逃れてもいいんじゃないかな、と思いました。「理解語彙」「使用語彙」「ホールケーキに手形を付ける」とかの表現は強さがあってよかったです。



大村咲希「フリータイム」

  カビ臭いエアコンの風止めたから「暑いね」だけで埋まる曲間(二首目)

  十時間無言で歌い続けた日終わる気も終わらない気もしてた(八首目)

  十八時から五時まで地下の一室でかわるがわるに歌う 夏だな(十一首目)

 カラオケのエアコンってなんであんなにカビ臭いんでしょうね。あとバンバン(バンバンであることが一首目で示されます)のフリータイムの時間帯ってめちゃくちゃ長いよね。
 「終わる気も終わらない気もしてた」が八首目ではレトリックと歌意の肝なんですけど、実は「無言で歌」うという言葉としては矛盾したレトリックが使われていて、うまいな、と思いました。この歌が一番好きです。
 連作の構成としては一首目で回想に入り、そこから過去形と現在形を駆使しながら回想内の「私」と回想している「私」とが微妙に分けられて描かれる。いい見せ方だな、と思いつつ一首目の「中間テスト最終日」と十一首目の「夏だな」と十六首目の「三月なのに」は微妙に時間がズレてるのでは? と感じました。何度か言ったカラオケのそれぞれを回想してるとするならちょっと読みづらい。でも一首一首がうまいと思いました。



河田玲央奈「さくらのはなし」

  たぶんみんな行きつくところは手紙だね 偏西風を抱けばはやい(二首目)

 この歌が好きでした。手紙から紙飛行機にイメージが転換するところが気持ちいい。ただ屁理屈を言うとこの論理だったら手紙の物理的な方向性が限定されてしまうのでは? と思いました。
 あと「ぬばたま」ってそれぞれ歌数が違うのですね。文脈をやる人が二人来てからのこの連作だったので少し物足りなさを感じました。相対的に。ストーリーがありそうでない、ようである? という混乱が少し。

  たまご粥よそったあなたの指先のぬくさまで好き うなじも好きよ(五首目)

  きらいっていわれたあとのふりかけは朝にやさしいひかりであるよ(十首目)

 この「好きよ」とか「であるよ」みたいな語尾を見ると身構えるのですが、十首目はなにかこう、そうでもしなければ処理できないような切実さを感じました。五首目は転換するのかと思いきや転換されなくて残念でした。



九条しょーこ「無数通りのひとつの出会い」

  商店街のアーチくぐって傘がまだ畳めぬうちに目が合うきみと(七首目)

  あ、好きだと思ったあ、の口のままアホか! とふりかぶって放つ(九首目)

 なんでみんなこんなに恋してるんですか? あ、でも恋とは違うのかなこの連作は。

  奇跡とか言うなよこれは無数通りの僕ときみとのひとつの出会い(十首目)

 恋って限定するのは危険なのでこの連作を恋と限定することはしないのですが、ただ「僕ときみとのひとつの出会い」なんですよね。いくらでもある出会いのなかの一つに過ぎないのか、それとも「僕ときみ」が出会うやり方が無数にあり「これ」はそのうちの一つなのか。文法的には後者になると思います。「奇跡」と呼ばないにしてもこの「ひとつの出会い」が価値あるもののように書かれてしまうと、結局二人の関係を特別視する歌になってしまうんじゃないかと思いました。七首目の丁寧さ、九首目の勢いが好きでした。ただ二首目や三首目など既視感のある表現が多かったと感じました。



櫛田有希「くらい胃袋」

  まだ愛とか言ってるんだね とりあえずスープのアクを掬ってもらう(三首目)

  まん丸く骨をかこんだ肉がある きみ 笑うとは何か知ってる(七首目)

 この流れで「まだ愛とか言ってるんだね」が来るのはいいですね。タイトルに「胃袋」があり、飲食の関連する歌が多いです。で、その根底にあるのは何かに対する諦念だと感じました。

  ここはまだ砂漠と思う大皿のサラダを草と呼ぶひとを見て(四首目)

  ああなにもしなくていいよ 板ガムを飲みこむ喉の動き 悲しい(八首目)

 この諦念の源流がなんなのかは十首では掴めなかったのですが、この温度感が良かったです。出てくる具象も面白いところを引いてきてるな、と思いつつ歌の多くが観念の要素を強く持ち、それが捉えづらさを出しているように思えました。



越田勇俊「仙台市営地下鉄南北線」

     N03黒松     ポスト
  ぬばたまの黒松駅のいろ褪せたポストに落とす夜の断片(三首目)

     N09広瀬通    たゆたう
  広瀬通を川だとすれば草舟のやうに流れてながれて明日(九首目)

     N15長町     別れ
  ガジュマルのごとく腕を伸ばしたり君ゆく街に春わたすべく(十五首目)

 吟行連作ですかね。一首一首に駅名が振られ、それにちなんだ歌が詠んであります。うまいと思いました。それぞれお方向性が違い、読んでいてだれなかったです。またイメージが豊かで、「そのもの」を詠む歌もあったのですが上に引いたような比喩の力を感じさせる歌が特に好きでした。



坂本歩実「せんひき」

  絶対にお前を殺してやるという歌詞が私の声になるまで(六首目)

  雨上がり夜のサドルをてきとうに拭うきみより長く生きるよ(十一首目)

 何があったのかはわからないのですが「私」がやたら「きみ」を殺そうとしている連作でした。この二首はその殺意がレトリックとうまく調和していて良かったです。「きみを殺せる」重機を意識したり駅のホームで「きみ」の背を押したりと危なげな雰囲気は面白かったのですが、七首目の「何にとは言わないけれどちょうどいいプラスドライバーが鞄の底に」はさすがにあざとい。ここまで殺意が顕在化してしまうとどうしてもその背後を知りたくなるので、もっと匂わせるくらいでよかったんじゃないかと思いました。



佐々木遥「花とループ」

  水でできた身体に水を注ぐとき日々とはたまに光る知恵の輪(二首目)

  手紙には手紙を返しそれだけが春先の唯一の簡潔さ(十二首目)

 「水」「光」「春」といったよくあるポエジーワードが滑っていないと思いました。一首単位ではそうなのですが連作で読むとちょっとそういう言葉が多くて、それがもったいなかったです。それぞれの抑揚は良かったです。イメージの壮大さに引きずられて「送風ですむ三月」の「送風」も何か壮大なものに思えてきました。ただ、美しいものを選んでそれを美しく描いているようにも思え、もし汚いものを見ざるを得なくなったときにどうなるかが気になりました。そういう歌も読んでみたいです。



佐藤峰士「雪と革命の国」

  外からは壁しか見えずこの国もどこかに難民窟を宿して(四首目)

  囚人のように車に揺られつつ人生のことばかりを話す(十一首目)

 海外旅行詠。国名を特定できる要素が無いのが特徴的で(あったらすみません。僕の知識不足です)、ひょっとして旅行詠に見せかけて日本のことを読んでいるのかもな、なんてことを考えながら読んだら楽しかったです。ただ、その「どこかわからない」というのは問題でもあって、この連作のなかに出てくる風景は海外のよくあるイメージにかなり添っていると思います。だから、海外旅行詠であることはわかるけれどどこか表面だけをなぞっているような感じ。旅行が終わってからカメラロールを見ると印象に残る写真がたくさん残っているんですけど、そのカメラロールに残さなかったところを短歌にしてほしかったです。



佐藤廉「あたらしい暮らし」

  こすったら消えるくらいの汚れとかちょっと良いって思っちゃうよな(七首目)

  学生がいっせいに来ていっせいに去って雨ふる駅前にいる(九首目)

 日常の何もなさ、短歌にすることで生じる詩となるものへの期待、をがっつり転倒させていくスタイルの歌だと感じました。ただそれってもうかなりやり尽くされていて、この先どうなってくのかよくわからないですね。

  iPhoneを一瞬なくす 一瞬で不安になったのかなり嫌だな(十八首目)

 この歌が特にそうだったのですが、歌をリアルタイムで読んでいる感じがしませんでした。七と九はリアルタイムで歌を追えてよかったのですが、軽い口語での日常描写、さらに話し言葉を使っているとそこに乗れるか乗れないかはかなり重要だと思います。意味が先に提示されてしまっているような、そういう印象を受けました。



篠田葉子「どんな雨でもだいじょうぶ」

  真昼でも空は星空であることの、星のひとつとしてここにいる(五首目)

  知らない国から攫いに来てよ 曇天は街のすべてを覆う手のひら(十二首目)

 現実をイメージで彩る歌が多いなか、そのイメージが通るかどうかが結構分かれました。たとえば四首目の「彫刻のように振り向く」は「彫刻は動かないしな……」と思ってしまう。十首目の「その声をひそめて秘密うちあける きみはオムライスをひらきつつ」の「ひらきつつ」みたいな素朴だけどちょっとひねってる表現が魅力的でした。あと全体的に空白や読点が多く、視覚的にだれました。



凍ぱお「万華鏡から覗かれている」

  まるで雪みたいフロントガラスでは夜光虫がはじけてとける(十首目)

  雪解けが進んできたよ久しぶりかたっぽ垂れている糸電話(十九首目)

 抑圧されている感じ、とか加害者意識のようなものを感じる連作でした。読むのが難しかった。「ドラえもんのリズム」「タイヤのようなグミ」「やいば」といった表現があまり活かされていないように感じました。


初谷むい「おはよ、ジュンク堂でキス、キスだよ」

  ジュンク堂でおはようのキス 信じてる 水だけで生き延びる物語(一首目)

  ジュンク堂で子孫繁栄 ほろびたらほろびたで遺跡になるでしょう(二十首目)

 さみしい連作だな、と思いました。乾さんの連作について「私ではなく他者にベットする」というようなことを言いましたが、この連作はその逆で「私に全賭けすることを他者に求める」という「私」の在り方なわけですね。ただその「私」は現実世界を見ていない、空想を信仰している。つまりそれは決して終わらない物語(終わったとしても遺跡として永遠に保存される)のなかに生きようとする「私」が、その物語のなかに「きみ」を(悪く言えば)引きずり込もうとしてるということです。

  最近は「驟雨」を覚え本屋さんで汗かくことに「驟雨」を当てた(二十二首目)

  あたらしい言葉を産もうわん♡にゃん♡からでいいわたしたちの言葉を(二十五首目)

 「当てる」って「充てる」じゃないのかな。この字でもいいんでしたっけ?
 このように「わたしたち」のなかで言葉を再定義してゆく、なんかディストピアっぽいですね。滅びを前提として夢に生き、滅んだとしてもその夢のなかで永遠に生き続けるという。

  ジュンク堂追いだされてもまあ地球重力あるし路ちゅーもできる!(三十首目)

 「わたしたち」のディストピアには「わたしたち」さえいればいい、ということだと思うんですが、根本的に思うのは「きみ」が行うと想定される「私」へのベットって全く軽々しいものではないですよね。人間は現実世界を生きているのでこの賭けは初めから負けているようなものだし、そう考えるとこの「私」がやっていることはほとんど詐欺じゃないかって僕は思ってしまう。
 勢いが先立って面白くない歌も多いけれど、このやり方でやるっていう意志を強く感じる連作でした。そもそも「ジュンク堂」という現実世界の店が舞台に設定されているということは、この「私」には現実世界が見えているのだと思います。僕が「詐欺」だと呼ぶそれをわかったうえでやっていく、というような切実さが見え、でも現実は強いので読んでいて悲しかったです。ところでなんとなくこの「私」に必要なのはベットしてくれる他者というわけではない気がするな……



ゆがみ「穴あき人間」

  ヘイタクシー行き場を失くしたお祈りを遠い町まで攫ってくれよ(七首目)

 強い感情、言いたいことが先立って言葉がそれに追いついていないように思えました。この熱量だったら調整しつつ二十首くらいは読みたいなあ、という印象。






面白く読んだけど、「かんざし」をぶち抜くにはエネルギーが足りない感じがしました。誌面構成なども含め。第二号も楽しみにしています。

あと、93年生まれも強い人がたくさんいるのでよろしくおねがいします。
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