記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『キリンの子 鳥居歌集』の話

 おはようございます。今週のブログです。週単位で更新しようという意識は特にありません。

 これは『キリンの子 鳥居歌集』(株式会社KADOKAWA  2016年2月)です。本当は象の第四号で書こうと思っていたのですが、夏にいろいろ溜まりそうなのでここで書きます。

 作者自身の文脈が作品の評価に関わってくることへの懸念というのがありますが、この歌集はそういった懸念を吹き飛ばしてくれる強さがあって良かったです。面白く読みました。

 「生きづらさ」の話ですが、「生きづらさ」にも普遍的なものとそうでないものがあり、『キリンの子 鳥居歌集』は後者です。まだ読めていないので正確なことは言えませんが、虫武一俊歌集『羽虫群』はもう少し普遍的な「生きづらさ」を描いていると思います。生きづらさにもいろいろあり、生きづらいことが分かります。


  麻酔薬入ったままの右足は乾いたような皮膚をしている(「海のブーツ」 五首目)

 「ような」ということは実際に乾いているわけではないのか、あるいはまだ右足に触れていないのか、ということでしょうか。これは入水後の病室の歌なので、精神的な乾燥にも繋げて読みました。麻酔薬で感覚が消えた足を、徹底的に離れた視線で見ているところが面白かったです。


  朝の道「おはよ! 元気?」と尋ねられもう嘘ついた 四月一日(「職業訓練校」 一首目)

 軽いユーモアが切なさを醸し出すということがあり、この歌はそうだな、と感じました。「もう嘘ついた」の「もう」がほんの少し笑えます。ただ、この歌の裏には「元気じゃないよ」と言えないことの鬱屈、嘘をついたことへの軽い罪悪感、その罪悪感に許しを求めるような「四月一日」があり、それらが前面ではなく醸し出される程度であることが効いています。この「嘘」の内容は「元気だと答えた」だと大体の人は思うのではないでしょうか。そこは歌集の文脈なのかもしれませんが、一首だけ抜き出してもそう読むのが自然ではないか、と思います。


  昼ごはん食べず群れから抜け出して孤独になれる呼吸ができる(同 五首目)

 普遍とか特殊とかの話を上でしましたが、このような普遍に寄った歌も入ることによって作品がより読者に馴染むのかな、と思いました。


  白々となにもかなしくない朝に鈍い光で並ぶ包丁(同 十六首目)

 かなしい朝に見る包丁には意味が付与されますが、かなしくない朝に見る包丁にはどんな意味がついてくるのでしょうか。逆に、包丁を見ることによって「なにもかなしくない朝」がかなしくなってくるのかな、と感じました。「鈍い光で」の「で」や「白々と」の位置が散文の言葉遣いとはズレていて、それがこの歌にふしぎな抒情を与えているのだと思います。


  目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ(「キリンの子」 六首目)

 好きな歌ほど語るのが野暮に思えてきて口を噤んでしまうことはありませんか? 今の僕がそれです。なんのために書いているんだと思いますが。俺は誰に向けてこのブログを更新しているんだ。
 「目を伏せて」という言葉が重要で、これによって「空へのびゆく」ことへの微妙にネガティブな意識が生まれます。詩的情景のなかにそれを入れることでこの歌にものすごい奥行きが生まれているのです。表題歌にふさわしい歌だと思います。


  全裸にて踊れと囃す先輩に囲まれながら遠く窓見る(「孤児院」 四首目)

  剥き出しの生肉のまま這う我を蛇のようだと笑う者おり(同 五首目)

  理由なく殴られている理由なくトイレの床は硬く冷たい(同 八首目)

 徹底的な描写によってこれらの歌は突き刺さってきました。「全裸」を「剥き出しの生肉」と表現するところにハッとさせられます。いじめの描写なんですが、泣きが無く徹底して乾いている。感情の乾きは涙の乾きでもあり、どうしてもそこに至るまでの過程を考えずにはいられない。そういう力があると感じました。


  種さえも切断されるマシーンにて西瓜の赤がまな板濡らす(「野菜の呼吸」 六首目)

  ふよふよのみかんは見切り品にする手で触ってもふよふよわからず(同 八首目)

  八百屋なら生きていていい場所がある緑豆もやし積み上げながら(同 十二首目)

 八百屋の連作でした。終始野菜に関する話をしているのですが、なんというかこれを読んだときに「あ、この歌集の歌は日常詠なんだな……」と思いました。日常詠とかそういう括りがいいものだとはあまり思わず、またその括りにこの歌集を入れることが正しいことだとも思わないのですが。これまでの短歌はこの八百屋の連作と同じように書かれ、またこの八百屋の連作はこれまでの短歌と同じように書かれていることに気づきました。鳥居さんの短歌は、だから魅力的なのかもしれません。


  壊されてから知る 私を抱く母をしずかに家が抱いていたこと(「家はくずれた」 二十一首目)

  路線図のいつか滅びる街の名へ漂白剤のように雪降る(「みどりの蚊帳」 六首目)

 「母」が「私」を包み、「家」が「母」を包み、そして「街」が「家」を包んでいる。母の死や家が壊れたことを受けて、街の滅びを予感しているのだと思います。自分がどこに所属しているかは自分を示す証となり、母の死や家の死によって自分が匿名化されるように、滅びる街には漂白剤が降るのでしょう。


  消しゴムを失くしたくらいの風穴を感じて歩く友の死のあと(「紺の制服」 二十八首目)

  粉雪に滲む太陽 墓なんてどれでも同じ色をしていた(同 三十首目)

  秋風のうすく溜まれる木の皿に亡母(はは)の分まで梨を並べつ(「雨傘」 九首目)

 当たり前の話ですが短歌には自伝的な側面があり、『キリンの子 鳥居歌集』もそのように読めます。そのなかで気づいたのですが、印象深い出来事を詠った場合により重要なのはその出来事の詳細ではなく「その後どう生きるか」という点です。そう考えると、短歌は「どう生きるか」の詩型なのかもしれない。少し飛躍しているのでそれについては今後もさまざまな短歌を読みながら考えていこうと思います。

 歌集の話は始めるとどんどん長さになりますね。あと書いているうちによくわからない呪縛に囚われてゆくような気持ちになりました。ブログだからとこんな文体で書いていますが、紙媒体の評論なども本当はこういう感じで書きたいです。難しいですね。好きな短歌だけを挙げたのですがそうでもない短歌ももちろんあります。そこをどうしていくかも考えることになります。読むとはなんでしょう。

 続けてゆきます。お待ちしております。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。